昭和57年01月23日 月次祭
( ? )ことを永年、キリストの信心、いわゆるクリスチャンであります。初めの間は、なんか金光教の信心を軽く見ておられたようでしたけれども。次々と、あらたかなおかげを頂いて、本当に金光様のご信心が、こんなに新たかで、しかも、こんなに素晴らしい教えを持っておる宗教とは知りませんでしたと言うて、熱心に参ってこられる方がございます。
今朝からもお参りをさせて頂いて、これがご神夢と言うのであろうと思いましたら、大変気持ちの悪いまぁお夢を頂きましたからという訳です。というのは誰かがね棺桶を持ってきた。昔は棺桶と言うねこう大きな。そしてこの棺桶を、いつも傍に置いておきなさいと言われた。もう気持ちが悪うして、今日は早くお参りしてお尋ねしたいと言うので、まぁ参って見えたんです。
それでそりゃ気持ちの悪いというお知らせではないですよと。もうお道の信心によってお徳を受けて行くためには、どうでも何時も棺桶を傍に置いておる様な気持で、信心をさせて貰うなら、間違いない御神徳が受けられますよと、と言うて教祖の御教えを、まぁお話させて頂いた事でございます。おかげの秘訣とでも申しましょうかね。それはままよと言う心になる事。お徳を受ける秘訣と言うのは、どんな場合でもままよとは、死んでもままよのことぞ。ままよという心はおかげを頂く秘訣です。
死んでもままよと言う所まで、心が進んでまいりましたら、そこには何にもいうならば怖いものもない困ったこともない。あるものは有難いものだけしかないという訳ですけれども。あなたは神様がそういう、お徳を下さろうとする働きが、起こってくるのでしょう。何時もままよという心を作るために、信心の修行をする。今合楽では寒修行があっておりますから、何時もバスで見えるので車に乗れません女性の方ですから。それでまぁいっぺんぐらいタクシーででも良いじゃないですか。
合楽で寒修行があっておるのですから、いっぺん参っておいでと、言うてまぁ申しました事でしたが。いいや私は棺桶を傍に置いとけと言いなさるけん、こら私が死ぬるとじゃなかじゃろうかと思うてから、大変気持ちが悪かったと、こう言われるのですけれども。お話を頂いて安心しましたという訳なんです。所がそのくらいで安心しよっては、次のおかげが受けられません。いうならばそこで本気で、腹を作らなければおかげは受けられん。腹が出来た時に生まれてくるのが安心なんです。
合楽で私は皆さんがおかげを頂いて、信心を進めてお出でられると言う事は、もう何時の場合でも、神様が身近に天地がバックぞと言わんばかりに。そういう働きが前後にあって起こっておる。その中にあっての信心の稽古であり、修行であるのですから。いうならば普通度胸が据えられない度胸も、それを頂いただけで度胸が据わってくるですね。愈々信心の共励というでしょうか。信心の稽古と言う事がです。
今日は午後の奉仕の時でしたが、北野の秋山さん所の娘さんが、福岡の方と久留米の方に嫁入っております。今日は何か一緒になって、一緒に子供たち連れて同道で、参拝をして参りました。それで一番下の悦子さんという。これでもやっぱまぁ子供が、二人か三人か居りますが。嶋野悌子さんというのが、姉さんですから悦子さん、今年はどうでも、悌子さんが頂いておる所までの信心を、目当てにして信心を進めて行きなさいと。去年も今年も同じこっじゃ出来んばい。
あんたよりも悌子さん、悌子さんの信心を目当てにして、いうならば稽古をして行きなさい。悌子さんは一つお母さんが合楽の婦人総代としておかげを頂いておる。お母さんの信心を目指しなさい。ああいう心の状態になったら、有難いなぁと言う事を、その目当てがなからなければいけない。中々いっぺんでは中々そんなに出来るもんじゃない。というてまぁお話させて頂いた事で御座いますけれども。
その御理解を頂いてからです。今年から私ども姉妹三人、四人娘たち姉妹がおられますから、その四人の娘達が月に一回ずつ集まって、そして信心の共励をしたいと思います。そんなら、尚更いっちょお互いの信心の目当てをね。姉さんに置いたりお母さんに置いたりして信心を進めて行く。有難いなぁ嬉しいなぁと言うて、次の事を言おうとしましたら、感動で言葉が出ませんでした。
何でもないが何時も言ってる事なんだけれども、どう言う事だっただろうか、と言うのはあんた達が姉妹四人が寄って、たまにはお母さんもそれに参加するかも分からない。それで、信心の共励をするという事。有難い事だなぁ。とにかく喜びの集いに、神和したもうと仰せられるからと、それだけの事を言おうと思うたけれども、出なかった私は。喜びの集いに神和したもう。しかもそれぞれに嫁っている所から、月に一回ずつ集まって四人の姉妹達がたまには、母親も交えて信心の共励をしようと言うておる。
嬉しい事な有難い事なと。今私が言ったいうなら、妹は姉さんの信心を姉さんは、お母さんの信心をという風に一つの信心の段階というものが、信心の内容が違う。だから目指す所はもう一段進めて行くと言う事なんだから、と言う事を前提にしての事で今の事、お届けを聞かせて貰うて、私は思うた。嬉しい事だなぁ有難いことだなぁと、ね。これに神様が和したまわない事はないと言うた。
歓びの集いに神和したもうと。本当に私はあのとにかく、感動で言葉が出なかったんですけれども、これが結局本当に夫婦のものが、和して行くと言う事。親子のものが和して行くと言う事。家族中の者が和して行くと言う事。その点であるなら、従業員も店主もない和して行くという、その心がねそこに神様が寄り添いたもう。神様が、それに和して下さるのだ。合わせて下さるのだ。
それは信心の程度、程度に応じてではありますけれども、神和したもうという、おかげを頂く生活こそ信心生活だと、私は思いました今日。まぁ今日は私恐らく、合楽でもこういう信心を頂いておる人は、まずなかろうと思われる様な、熱心に合楽の信心に傾倒しきって信心しよる。中々出来ます方婦人の方ですけれども。二三日前、電話が掛っておった。もうその 電話を聞いて私もいささか驚いた。まぁ神様というお方は、本当に修行しようと思うたら、神様は本当に修行させなさるなと。
そらあんたどうするね、とまぁいうなら返事のしようのないほどしの事であった。こら人間として名前をもっとる者として、それはね合楽で説かれる所の、一切が神愛と。もうこの世はあの世のためにあるのだから、この世で徳を受け力を受けとかなければならない。それがただ徳が受けたい、力が受けたいだけでは受けられない。辛抱するとか辛抱しぬかせて貰うて、教えに徹してそしてこれが信心の位というものでもあろうかと、自分で思われ感じられるような信心を、日々頂いて。
喜びの生活が段々出来て、人間の幸せの条件が足ろうて行って、おかげを頂いて行くと言う事がです。まぁ合楽で何時も説かれて、またお話をしておる私がおかげを頂いておる、皆さんのおかげを頂いておるお話なのであります。だからもうこの世で、徳を受けとかなければと。その徳を受けれるチャンスというのは何時もはないのだと。もうこれはもうまぁいうならば、大学生でもいわばうろうろしておると、とてもこの問題は解きはきるまいと思う様な、一つの問題にぶつかった時にです。
これこそ合楽では、一切が神愛と言われるのであるから、神愛と受けようと思うても、受けられないほどしの事でありました。話をお話するとこりゃ面白い、小説にでもこげなつは無かろうと思うようなお話なんですけれども。ちょっとはばかりますから、内容はお話しできませんけれども、私はそらあんたどうするのと、まぁ言やしませんでしたばってん、言おうごたる感じ。
で今日お礼参拝をしてまいりました午後。その事には一つも触れません。けどもそん時の相手になっておられる方を、お届けにしてあった。それが松田さんとしましょうかね。松田何々というお届けがしてあった。それで私は丁度それ一時間ばっかり前にては、伊万里の竹内市長夫婦でご参拝になった。この四月一日がまた市長の告示日ですか、をしなければならない。そして四月の十一日が、また投票と言う事になるので、万事よろしゅうと言う、お届けがあっておりましたが。
その前にお届けがしてある、その名前がね。松本絹子さんという方のお届けがしてあった。だから私が先生にそれを示してね言うんですよ。もうとにかくもとは松である。合楽の信心である。合楽の信心によらなければ立ち行かんという自覚が出来ておられると思うけれども。松が元である。ですから、どういう様な場合であっても、この絹の心ですよと。そら市長の職という中には、決して、ほんなら市長の椅子にドンとこう座って、うん良か良かち言うだけじゃいかんごたるふうですねやっぱ。
いやそらぁ素晴らしいです。あの市長席ち私も四、五年前あちらへ行った時にね、先生いっぺんこれに座ってみて下さいと言われるから、大きな椅子です。前に私のその年の短冊が正面に掛けてある。少し驚いたのはこの市長椅子の、一番かげのここん所にこのくらいばっかりのメモ紙が、こう切って下げてある。あんまり不釣り合いな感じだけれども、いわゆるそのまぁ言うなら、反故紙一枚でも粗末になさらないという、竹内先生のご信心をそこに伺う事が出来たんですけれども。
今年も元旦に毎年その自分の前に掛けられる、それを替えて行かれる。今年は私は「和すれば乱れることなし」これは椛目の妹が頂いた、去年頂いた御教えなんです。和すればね。和賀心の和、和すれば乱れることがないという、それを今掛けておられると思いますが。とにかく神様のおかげを頂かなければ、立ちゆかんのですから。どんな場合であっても、絹の心です。松本絹子と。シルクロードと言う事は、まぁ大変険しい道だと言う事だそうですけれども。
それも言うなら信心一つでは有難い勿体ない。いうならばシルクというのは、絹のような柔らかな道という意味だそうですね。そういう柔らかな和の心を持ってするならば、どういう市政の上に難しい事があっても、自分の心を乱す事が要らない。松本絹子ですよと言うて、まぁお話をした事をその方に私が話したんです。もうこりゃ松の字がついとるだけでんこりゃ神様の御都合ねて、こう申しましたらもうその一言でした。
もう分かるんですね。おかげを頂いた時には、もう衝いたものが落ちるように、ねぇ先生そうでしたち、言う訳です。合楽に御親縁を頂いておると言う事は、こんなにも有難い。こんなにも有難い、神愛という事は、知ってもおりゃ、分かってもおる。合楽理念もたいてい実験実証させて貰って、有難い尊いと言う事が分かっておるんだけれども。この問題だけは許されない。これだけはまぁちょっととっさに、神愛とは受けられないと言うほどしの事で、二三日間悩みに悩みぬいた事でありましょう。
そしてその相手の人の名前を、松何々さんとこう私は。それを見た途端にはぁこういう間違いのない神様の働きのなかに、起こっておる事じゃからなぁというたらもうそれっきり、そうでしたそうでしたと。もう本当にすっきりしたその感じられるのが、こちらにも伝わってくるような思いでございました。私どもはねそのまぁこれは、私どもから見ると本当に先程の話じゃないけれども、ままよという気持ちになったら、いっちょん問題じゃなかじゃんのという様な程度が。
やっぱ小学一年生から幼稚園から色々ありますよ。同じじゃない。中学高校大学と言う様にですね。いわば信心が進んで行きゃ矢張り、その問題もまぁ難しい事にもなってくるのですけれども。その難しい事時ほど、いうなら御神徳をあの世に持って行く所の御神徳が頂ける時であり、愈々神様のいうなら間違いない、ご演出とでも言うかお働きをです。確かにそれを受けとめていける力が、受けていけれるチャンスになってくる訳であります。それをやっぱ幼稚園は幼稚園なりで。
うろうろしたり小学校は、小学校なりで受けきらなかって、何時まででも小学校ち言うのが、やっぱありますよ。どうぞ皆さん胸に手を当てて思うてごらんなさい。十年信心しとるから、十年生という訳にはいかん。ね。十年信心しとっても、まだ一年生なりしか信心は進めておらん。先ほど申しましたように、秋山の娘姉妹じゃないけれども、妹は姉さんを見習い、姉さんはお母さんの信心をと。
今年は目指しを持って、信心を進めて行けと。もうそげなことはいっちょん、問題じゃなかじゃんのと言う様な事でっても、この人はもう本当死ぬか生きるかというごと苦しんだんですからね。ですがそれはね、様々でございますけれども、神様はね試験をなさるでも、教えとらんとこは出さんと仰る。いっぺん教えて分かった分かったち、分かった様な顔しとるから、本当に分かっとるかどうかの試験です。ですから自分の前にまぁ右にしとるやら、左にしとるやら分からん。
悩ましておるような問題がある時には、まずここは一遍習うとったがと、思うてみなければいけんです。そしてあぁここはこういう時が、こういう心で受けて行けば良いと言う様にね。何時も絶えず信心の稽古をさせて貰う構えというものが、出来とらんと失敗いたします。そしておかげは頂いても、どうどうめぐりでまた次も同じ問題が出た時、またそれでやっとかっとと言う様な事である。でそこんところが出来て行く様な、一つおかげを頂かにゃいけん。
今朝からの、御理解に三宝様を踏むなと三宝様を踏むと、目がつぶれると言うがという、あの御理解についての御教えでしたが、教祖様が三宝様という言葉を使っておられるのは、矢張り当時やっぱ仏教の言葉を良く使っておられますが。仏教から来た御教えでございます。それにこう注が入れてありますね。御理解のご本には。穀物の意という風に書いてあります。いうならば人間生きて行く上の、一番大切なものと言う事。その大切なものを踏んだり粗末にしたりしては目がつぶれるぞと。
私ども子供の時に良く言われた。畳の上にこぼれておるあのご飯やらば、拾わんで食べると足が額口につくぞとか、何とか婆が言いよりました。畳に落ちとるとでもやっぱ頂きますと言うて、頂くかじゃ出来じゃった。今頃の若いお母さんなんかは、そげなもんども食べて黴菌のついとるち言うて、ぽんと捨てるでしょうね。(笑)それだけ違う昔と今は。というようにですね。
三宝様と言うそういう意味でお説きになってるように思うんですけれども。合楽の場合は何時もそこから、愈々深く広くこう説かせて頂く訳ですね。三宝様というのは、仏教の言葉で仏法僧と言う事だそうです。仏様を大切にする。法というのはいわゆる、お釈迦さまが説かれた法、いわゆるあのお説教というでしょうかね。を大切にする。僧というのは仏様の取次をして下さる道を教えて下さる、お坊さんの事。仏法僧とこれを大切にこれが、一番大切なものだと、まぁ仏教では説いておると。
やっぱそういう意味に、教祖様は触れておられないですけれども。私はその三宝様踏むなと言う事をです。目がつぶれると言う事は、そういう大切なものを疎かにしておっては、確かに目がつぶれる。信心をするものは、肉眼を置いて心眼を開けと仰せられるが、心眼が開ける何時までも、肉眼でいかなかればいけない。心眼を開くためにもいわゆる、この仏法僧を大切にしなければいけない。ね。まぁ金光教的に言うならば、仏と言う事は、天地金の神様と言う事になるでしょう。
その天地金の神様を大切にすると言うても、どげんして大切にするかという事。ほら神棚を作って麗々しくお祭りして、拝みあぐると言う事が、大切にするという事ではない。その神様の御働きそのものを大切にする。神様が人間氏子のためにお作り下さった、一切のいうならものを、御物として大切にする。だから神様の心が分からなければ、神様の心に沿い奉ると言う事も、大切にする事も出来ないし。
いうなら天地の道理を聞かせて貰わないと、反故紙一枚でも天地のお恵みのかけられておる、掛っておる物と言う事が分からんからお粗末にする。私は昨日から今朝にかけて、しきりに何時も思っておる事ですけど、こんなに深刻に感じたことはなかったんですけれども。とにかく合楽でね例えば、必要でない所に電気が一つ、小さい五燭光なら五燭光でも、必要でない所に点いておったとすると、私は何か自分の、大げさに言うならね、自分の身が削られる思いがするんです。
はぁ親先生はけちんぼだな。私も大体けちんぼかな。こげん所に気がつくのはと思うくらいですけれども、さにあらず。その証拠は例えばほんなら、全館に百万燭の電気が点いておっても、それを使わなければならない様な事で、沢山な人が集まっておる時に使うのならば、私はそれこそ喜ばしい嬉しい。これはそのまま、天地の親神様の心ではなかろうか。天地人一如と言う事を言われるが、私は天地人一如の世界にあるから、自分の物を粗末にされると、もう身を削られるごたる思いがする。
というてもっておりて私の物を、十分に使うて下さって喜んでおられるならばもう本当にそれが嬉しい。これが天地の親神様の、いうならばお心である。甘木の親先生は、神様の御物と言う事を、特にまぁ神経を細かく使っておられたお方であったと承っております。枯れ枝枯れ葉一枚一本でも、お粗末になさらなかった。天地の親神様の御物である事が、分かれば分かるほど大切にしなければおられなかった。
だから天地の親神様が、甘木の、安武松太郎先生を大事にしなさったというのが、あの御神徳じゃないでしょうか。私がここでは一切の事柄に御の字をつけて、御事柄として頂く。例えばほんならその電気一つでもです。無駄な所に使われておるなら、自分の身が削られるような思いがする。反対にほんなら百万燭光の電気を点けておっても、それがお役に立っておると言う事なら心が嬉しい。
神様はそんな方です。使うちゃならん使うちゃならんち、けちんぼうばっかり言うておられるとじゃけちんぼじゃないんです。天地の親神様の心が分かるから、大切にせずにはいうならおられないというのです。これは私は仏法僧の、仏を大事にするという。天地金の神様を大切にすると言う事は、そういうご恩恵の物。ほんなら、神様のご栄節下さる、いうならば御事柄というものをです。
もうそれこそまぁいうならば、普通なまめを持っておる人間では、到底受けられまいと思う様な事柄が起こっても、それを分からせて下さろうとする。何時も働きが合楽には充満しておるのだ。だから、信心が進めて行き良い。はぁそうでしたともうそれこそ、衝いたものが落ちたように安心する。それはどう言う事かというと。ままよという心ではなかろうか。ままよとは死んでもままよの事ぞと言う程しの所まで、心が落ち着いて参ります時に、もうそれは問題ではない。
もうそれはそのままが神愛だ、そのままがお徳を頂く元だと言う事になるのです。法というのはまぁ色んな経文を、沢山残っておりますのはその経文の内容の事でしょうね。法の事です。仏法の法。法が説いてある。それを合楽では金光大神の御教えを、愈々広く深く、いうなら合楽理念によって、皆さんに説き明かしつつあるのです。ですから合楽理念のマスターと言う事は、結局法を天地のぎょほうというか、を体得する事になり、しかもそれがこう見やすうそれが、行じていけれるように合楽では説いてある。
だから愈々合楽で頂く皆さんの、いわば御理解御教えというものを大切に、そして自分の血に肉にして行く精進が要る。それが法を大切にすると言う事である。僧というのは今日も、お話のなかに申しましたようにいうならば、金光大神を大切にする。金光大神のお手代わりを大切にする。ここで言うならばほんなら、親先生を大切にすると言う事は、親先生と、何時も交流しておる様な、まぁ合楽に対するどうねんしんとでも申しましょうか。合楽に傾倒する、ね。
とにかく合楽に行くと思うたら、もう胸がドキドキするぐらいな気持ちでね、お参りをして来る様になると、信心が愈々身についてくる。あぁまた参らんならん。今朝ももう寒修行で参ったけん、今夜どん参らんでん良かろうもんち言うた人もあったかも知れません。けれどもまた参られると勇んで参る。例えばね今今日は、鞍手の地区の方達が、みんな参っておられますが。朝先だってなんかは道路が通られなかったからね、五時間もかかった片道が。と言う所から沢山参って見える。
今朝もお参りしてきてから、またお参りしてきておられる。その参る道中でもいろんな事がある。ね。先だってからもそのあんまり急いで来よるもんじゃから、そのあれ捕まった訳です。ね。金光様に参りよるとじゃから、捕まりはするめちなんちいうこつは無いです。やっぱ捕まるです。ばってんとっさに出たち、久留米の親父が危篤ち言う電報の来たましたから、みんなで行きよりますち言うた。さぁ、はよ急がんの急がんのち言うたげな。はっはははぁ嘘も方便ちゃこんなこっじゃかと思うたね。(笑)
久留米の親父が死にかかっとる。はぁそんなら急がんの急がんのと言う様な風でね。もうとにかく合楽にお参り、もうあげなこつがあるけんで、もうこげな遠か所からお参りせんでん、今日はもう雪の降って参られんけんでと言うのでなくて、どうでもこうでも、それこそ合楽に向かう心というものが、矢を射るような勢いで参って見えてある。信心にはそれが要る。ね。
言うなら鞍手の方達の場合なんかは、とにかく矢張り合楽に対する、いうならば動燃心がそれだけ、誰よりも強いと言う事になるのじゃないでしょうか。これで仏法僧を大事にせにゃならん事が分かります。それに私はいうならば自分、自らの心を大切にせよという。私の部屋に行って下さった方は知っておられる。私の入り口の所に掛っておる額がございます。それには四方と書いてある。四方庵と書いてある。
茶室がそこにありますから、そこに宮崎の高橋さんという方が、( ? )ほうり上げてお供えなさった額がかかってます。四方と四と言う事は、あんまり誰でも好かんけれども、これは四方八方のおかげを頂くためには、前提としてどうしても、四方を通らなければいけない。広がりに広がって行く事の為の前提それが四方だと。しかもほんなら三宝様と同時に、まず自分自らの心を大切にすると言う事で、四つの宝というのは、これなんだ。仏法僧と自らの心である。
そこからねいうなら、まぁ信心の楽しみも喜びも生まれてくる訳ですけれども。たいてい一切は本当に、この世はあの世のためにあると仰せられるから、この世での修行は本当に、有難くさせて貰わんならん。一切が神愛と仰せられるのだから。本当に合掌して受けなければならんというて、分かっておるようであっても、今、申しますようにね。和すれば乱れる事は無いのだけれども、そのなかに和して入れない様な事柄もあるけれど。そういう時に二日も三日も悩み続けさせて貰うた。
お参りさせて頂いた。そしたらこげな間違いのない、神様の働きのなかにあっておる事だねと。一言聞いただけで、それこそ衝いたものが落ちた様に、心が安らいできた。いうならばそうです、ここでままよという心を、ここで死んでもままよのことという、その心が出来て行くような働きが、合楽にはいっぱい起こっておると言う事であります。ね。その気になって行けば、どう言うところでも、通り抜けられないと言う事はない。有難く勿体なく通り抜けられる。
それにはまず皆さんに今日聞いて頂きました様に、神様の心が分かり神様のお心に対しての生活。同時に神様の御事であり、又は御物をいかに大切にすると言う事がです、ね。大事な事かと。いかに成程合楽理念の勉強はしなければならないか。それが勉強だけじゃなくて、それを自分の血に肉にして行かなければならないか。そして自分の心が合楽に掛けられておる、その心というものを何時も見極めて。果たしてどの様な程度に合楽を自分の心の中に頂いておるであろうかと、確かめながら愈々それを。
確かなものにして行くと言う事。そしてどの様な事にでも和していけれる心を願い、求めさせて頂いての信心。愈々まぁ寒修行もあと十日ぐらいですか。どうぞまだ参加しておられん方は、いっぺんでもね一生懸命の、皆さんの寒修行の模様に触れられて、私はもうあの何でもそうでしょうけれども、信心に修行を抜きにしたらね、修行を抜きにしたらほん本当な稽古は出来ないと思うです。ただいんや月次祭たんべんには参りよりますち言うこっじゃいかん。矢張りそこには修行が要るです。しかもほんならまぁ勢信心
(途中切れ)